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  • 出島と船とコンプラ瓶

    出島と船とコンプラ瓶

    こんにちは〜!

    旅先で、自分でも分からないけど何故か惹かれる出会いはありませんか?

    「出島」で思いがけず起こったトキメキ…。

    何が自分の心を動かすのかは出会うまで分からないもので…

    私が心惹かれたのは、船とコンプラ瓶でした。

    ナゼ…?

    ということで今回は長崎・出島から。

    出島では航海で使われていた様々な船の模型を見ることができまして、全くわからないけど模型を見て大歓喜したので、船について調べてみました。

    相変わらずニッチね〜

    フスフス(鼻息)

    ■ 世界の船の模型から見る歴史

    ポルトガル船「カラカ・アトランティカ」、オランダ船「フリースランド」をはじめ、帆船の模型が並ぶ展示。

    ポルトガル…?

    ■ 16世紀、日本の向こうから「南蛮船」がやってきた

    長崎とヨーロッパとの交流を考えるうえで、まず登場するのがポルトガルです。

    15世紀から16世紀にかけて、ヨーロッパではいわゆる「大航海時代」が始まり、ポルトガルはアフリカ南端を回ってインド洋へ進出し、さらにマラッカ、マカオなどへ交易網を広げていきました。そして16世紀、そのネットワークが日本へとつながります。

    南蛮貿易!

    当時の長距離航海を支えた代表的な船のひとつが、模型があったカラカ船。ポルトガル語では「ナウ(nau)」とも呼ばれる大型帆船です。

    出島で見た「カラカ・アトランティカ」の模型

    ■ ポルトガルからオランダへ

    ところが江戸幕府によるキリスト教への警戒が強まり、1639年にはポルトガル船の来航が禁止されました。

    1641年、平戸に置かれていたオランダ商館が長崎の出島へ移されます。

    こうして出島は、その後長期間にわたり、日本とオランダとの貿易・交流を支える重要な場所となりました。

    当時、日本との貿易を行っていたのがオランダ東インド会社、通称VOC。17〜18世紀には、大きな木造帆船がヨーロッパとアジアを結ぶ交易に活躍していました。

    3本ほどのマストにたくさんの帆を張り、高い船尾を持つ姿は、まさに私たちがイメージする「大航海時代の帆船」。時代や船によってかなり違いますが、17世紀の大型船になると全長40〜50m前後、数百〜1,000トン級のものもあり、貨物船+旅客船+軍事的な能力を持った船を一体化したような存在だったようです。

    17世紀のインド洋・東南アジアでは、ヨーロッパ諸国の勢力争いや海賊などの危険があり貿易と軍事が非常に近い世界だったことが伺えますね。

    命懸け!

    他にもあんな船やこんな船

    ■ 長崎へはどうやって?

    出島との関係で特に重要なのがルートです。

    VOCの交易ネットワークは巨大で大まかには、

    オランダ

    大西洋

    アフリカ南端・喜望峰

    インド洋

    バタヴィア(現在のジャカルタ)

    という長距離航路があり、バタヴィアはVOCのアジアにおける一大拠点でした。

    ヨーロッパから喜望峰を回ってアジアへ。そしてバタヴィアなどを拠点として、長崎へ向かう船がやってきます。

    像もはるばるやってきたり🐘

    ずっと以前よりあった既存の海上交易圏へヨーロッパが直接進出したことが大航海時代の革命ポイントで面白いのですが長いのでここは割愛します。

    カットカット!

    ■船の中は「世界の商品倉庫」

    ヨーロッパとアジアを往復する船には、香辛料、織物、陶磁器、茶、コーヒー、砂糖や薬品、織物、ガラス製品など各地の商品が積み込まれ、書籍や交流を通して西洋の医学や天文学をはじめとする学問も、日本へ伝わっていきました。

    夢と浪漫を感じる…


    ■ コンプラ瓶ってなに?

    もう一つ私の心を掴んで離さなかったコンプラ瓶。

    今写真を見返してますます深まる謎。

    なんで心惹かれたのかな?

    コンプラ瓶とは、江戸時代から明治時代にかけて醤油や酒などを海外へ輸出する際に使われた陶磁器の瓶で、「コンプラ」という少し不思議な名前は、ポルトガル語の「comprador(買い手・仲買人)」などに由来するとされています。

    展示されている瓶を見るとアルファベットで手書き文字が書かれています。

    JAPANSCHZOYA「日本の醤油」

    JAPANSCHZAKY「日本の酒」

    中身の醤油や酒だけではなく、波佐見焼のこの瓶そのものも海外で珍重され、ヨーロッパへ渡っていったそうです。

    品物も、食文化も、技術も、そして知識も風に乗って世界を旅していたのですね。

    ちなみに、コンプラ瓶のお醤油差しをお店用にと思ったのですが、売り切れでした🥲

    旅先で心が動いたものから、歴史をたどってみる

    出島を訪れる前は、恥ずかしながらVOCの船もコンプラ瓶もほとんど知らずに生きていたようなもので…

    「なぜか分からないけれど、妙に気になる」

    旅は自分でも知らない自分に出会わせてくれます。

    知らないことを知ったからと言って何かが変わるわけではないのですが、これだから旅は面白いですね!

    それにしても…

    コンプラ瓶のお醤油差しはやっぱり欲しかった〜。次こそ出会えますように!

    出島のお土産がお店のどこかに飾ってあるので探してみてくださいね👀

  • 長崎と岩崎弥太郎 ― 日本の未来を変えた港町を歩く

    長崎と岩崎弥太郎 ― 日本の未来を変えた港町を歩く

    長崎を訪れると、異国情緒あふれる街並みや美しい港の景色に目を奪われます。

    グラバー園、大浦天主堂、出島…

    (弾丸ですが一通り全部回ることができました)

    どれも人気の観光スポットですが、言わずもがなこの街には、日本を代表する企業「三菱」の礎が築かれた歴史が残っています。

    その中心人物こそ、三菱の創業者 岩崎弥太郎 です。

    長崎の地を見下ろすグラバー園から時代を築いた先人達は何を思い何を考えたのか…

    旧邸宅や跡地を訪れると同じ景色を眺めてそんな風に思いを馳せてしまいます。

    グラバー園、バルコニーからの眺め

    下級武士から、現代に続く大会社を創りあげるまでの過程に何があったのか興味が湧いたのでお客様方のご協力のもと岩崎弥太郎氏に関する本を何冊か読みました。(ありがとうございました!)

    今回は、ほんの少〜し詳しく、ほんの〜り格的に長崎と岩崎弥太郎氏の関わりについてご紹介します。

    本だけに

    ・・・。

    岩崎弥太郎が長崎で見た世界

    土佐藩出身の岩崎弥太郎にとって、長崎は人生を変えた特別な場所でした。

    しかし、その道のりは決して順風満帆ではありません。

    若き日の弥太郎は、父が理不尽な扱いを受けたことに憤り、江戸から土佐へ戻り奉行所へ抗議しましたが、その行動は役人への反抗とみなされ、皮肉にも弥太郎自身が投獄されてしまいました。

    正義感から起こした行動が、自らの人生を大きく狂わせることになったのです。

    ところが、この不運が思いもよらない転機となります。

    獄中で同房となった商人から、算術や商売の考え方を学び、それまでの「武士として生きる」という価値観だけではない、新しい世界を知ることになります。

    もしあの出来事がなければ、後に日本を代表する実業家となる岩崎弥太郎は生まれていなかったのかもしれません。

    あの日あの時あの場所で

    君に会えなかったら

    人生は、その時には不幸だと思える出来事が、後から振り返ると大きな意味を持つことがあります。

    弥太郎の人生はまさにそれを教えてくれたようです。

    その後、吉田東洋との出会いをきっかけに土佐藩へ登用され、長崎へ派遣されます。しかし、この最初の長崎勤務も決して成功ではなく、資金調達のために無断で帰国したことが問題となり、一度は職を解かれてしまいます。

    それでも弥太郎は諦めませんでした。

    商売の知識を磨き、経験を積み重ね、やがて再び土佐藩の長崎商会を任されるまでになります。

    野心は若い頃から誰よりも強く持っていましたが、すぐに成功したわけではなく、挫折を経験し、遠回りをし、力を蓄えながら、訪れるべき時を待っていたのです。

    そして再び訪れた長崎。

    当時の長崎は、日本で唯一世界と本格的につながる国際都市で、港には外国船が並び、蒸気船が行き交い、世界中の商人が貿易を行っていました。

    ここで弥太郎は、スコットランド出身の商人トーマス・グラバーをはじめ、多くの外国商人と接し、国際貿易の最前線を目の当たりにします。長崎での経験を通して、「これからの日本には海運こそが国を豊かにする力になる」と確信したといわれています。

    参考文献等:三菱商事、暁の群像 他

    トーマス・グラバーとの出会い

    長崎で弥太郎が出会った重要人物が、スコットランド出身の商人トーマス・グラバーです。

    グラバーは武器や蒸気船を輸入するだけではなく、日本へ最新技術や海外の情報をもたらした人物でした。

    弥太郎はグラバーとの交流を通じて、世界を相手にしたビジネスの考え方や国際感覚を学びます。

    その後、三菱は船の購入や石炭事業、造船事業へと発展し、日本を代表する総合企業へと成長していきました。

    長崎は、弥太郎が「世界」を知った場所だったのです。

    高島炭鉱が支えた日本の近代化

    長崎港の沖合には、高島という小さな島があり、ここにある高島炭鉱は、日本初の本格的な洋式炭鉱として知られています。

    石炭は蒸気船を動かすための燃料であり、当時は「黒いダイヤ」と呼ばれるほど重要な資源でした。

    三菱はこの高島炭鉱の経営に乗り出し、安定した石炭供給を実現します。

    自社で石炭を確保し、自社の船を動かし、自社で世界へ運ぶ。

    この仕組みを築いたことで、三菱は急速に発展していきました。

    現在では当たり前となった「物流」「エネルギー」「製造」を一体で考える経営を、弥太郎は150年以上前に実践していたのです。

    長崎から世界へ

    長崎港を歩いていると、当時もここから多くの船が世界へ向かって出航していたことを想像します。

    岩崎弥太郎にとって長崎は、単なる港町ではなく、海外の文化や技術、人との出会いがあり、日本の未来を思い描いた場所だったのでしょうか。

    その後、三菱は海運会社から造船、重工業、商社、銀行、保険などへ事業を広げ、日本の近代産業を支える存在となりました。

    その原点は長崎という港町に行き着くのも旅の面白さです。

    長崎市街を結ぶ路面電車

    ちょうど三菱電機エンジニアリングの路面電車でした。車内の広告も全て三菱電機エンジニアリングでした。

    旅は人生のヒントをくれる

    長崎は、異国情緒や独自文化、美しい景色を楽しむだけに留まらず、日本の近代化を支えた人々の挑戦や苦悩までもが詰まった街でもありました。

    不運と思える出来事が、人生最高の転機になることがある。

    成功する人も、最初から順風満帆だったわけではない。

    旅先で心の琴線に触れたことをメモして後から振り返る楽しさを感じた旅でした。

    今回観光名所の話を全くしなかったので、、、

    もう少し長崎ブログがつづきます。

    つづく!

  • 空港から船でハウステンボスに行ってみた🛥️

    空港から船でハウステンボスに行ってみた🛥️

    こんにちは!

    今回は少し違うルートでハウステンボスへ向かってみました。

    長崎空港から高速船でハウステンボスへ!

    実は長崎空港からハウステンボスまでは、高速船が運航していて、約50分で到着します。空港ターミナルから船乗り場までも徒歩5~10分ほどなので、飛行機を降りたらそのまま船旅が楽しめるんです。(長崎空港)

    飛行機を降りたら、そのまま船へ

    空港の建物を出てまっすぐ歩いていくとすぐに乗船ターミナルがあります。

    無事乗船しました。

    船で直接ハウステンボスに向かえるなんてなんだか旅のワクワク感が一気にアップします。

    海から眺める長崎の景色

    高速船が出航すると、目の前には穏やかな大村湾。

    飛行機で空から見た景色を今度は海上から見ることができるのはとても贅沢です。

    こちらは空からの景色

    船からの景色は上手に撮れず…。ぜひ臨場感を体感してください。

    約50分という時間も、景色を眺めているとあっという間。

    「移動時間」ではなく、「旅そのもの」を楽しめる移動手段だと感じました。

    説明のおじさまが長崎らしさ満点

    ハウステンボスへ船で入国!

    近づくハウステンボス

    そして高速船はハウステンボス専用の桟橋へ到着。

    移動そのものがアトラクションのようで、とても印象的でした。

    長崎空港からハウステンボスへはリムジンバスでもアクセスできますが、少しだけ非日常を味わいたい方には、ぜひ一度体験していただきたいルートです。

    逆もあり!ハウステンボスから船で空港に直行できます。

    ハウステンボスや長崎市内などもう少し続く…